新聞の行く末

新聞の行く末を案じるエントリを度々アップしていたのも今は昔。
最近は、興味の軸足が、新聞から情報の媒介としてのメディアに移ってしまったので、大騒ぎするつもりもないのですが、一通過点としてメモを残すことにしました。

今日、Twitter上で、米国でこんなトピックがアップされていることを知りました。

SENATOR CARDIN INTRODUCES BILL THAT WOULD ALLOW AMERICAN NEWSPAPERS TO OPERATE AS NON-PROFITS

要は、米国上院のカルダン議員が、新聞社を非営利組織として再生する法案を提出したよ、ということみたいです。

そういえば、今年、フランスでは、政府が新成人に1年間無償で新聞を届ける(購読料は新聞社負担、配達料は政府負担)という政策が発表されました。フランスの新聞事情が独特という背景はあると思うのですが、国内では業界関係者を中心に、ネット上でちょっとした騒ぎになったことも記憶に新しいところです。
※フランスの新聞事情はこのブログ(らられぽーと)が詳しいです。

話を戻して、新聞社の非営利組織化という話ですが、国内でも何度か似たような話を聞いたことがあります。

実際、廃刊後に、非営利での復刊を目指した事例としては、鹿児島新報があります。この辺りは、新聞再生―コミュニティからの挑戦 (平凡社新書)に詳しくレポートされています。

また、現状のどうしようもない「新聞」はおいといて、純粋にシビックジャーナリズム的な観点で地域メディアを考えると、非営利組織での運営もありかも、という識者の意見を聞いたことがあります。ただ、機能面からアプローチすると、それもありなのかも知れませんが、縮小するマーケットにおいて、巨大な装置産業を果たして維持できるのかというところは、自身まだ首を傾げてしまうところです。

新聞の行く末に、別の選択肢はないのでしょうか、、、とか言う前に、果たして「新聞人」は、この辺りのトピックを押さえているのかなw
そのあたりが、問題の根っこだったり、、、


8 Comments

  • schmidt

    2009 年 10 月 2 日

     NPOとしての新聞メディアを考えることと、既存の新聞社を存続させるためにNPOという手法を考えることは全く別物です。

     後者の議論であれば、公の資金を入れてまで本当に新聞メディアを維持したいのかどうか、一人ひとりが自分の胸に手を当てて考えればいい。選択は自由です。わたしのノーです。

     前者であれば、既存のメディア体系に対する提案として非常に有意義です。ただし、NPO、NGOつまり非営利セクターでジャーナリズムをやろうとしたら、相当の覚悟が必要になります。ボランタリーな市民の参加性と事業性の両立に加え、ジャーナリズムとしての品質をどう維持するかという重大な問題が発生します。それは別に新しい話でもなんでもありません。昔から地域に存在してきた非常に小さな新聞(ごう慢なことにわたしたちは「豆新聞」と呼んできました)がどんなジャーナリズムを具体化できたかを検証してみればいい。

     ボランタリーな領域における日本人の感覚がどういうものであるかの測定も正確に行う必要があります。

     米国でNPOに関する議論が行われる背景と、日本の非営利セクターの背景とでは、あまりに事情が違いすぎるので、一緒くたにする議論は危険でもあります。
     ちなみに「新聞再生」のかぎは、ジャーナリズムにこだわらないこと、生活情報をいかに重視するかだ、と受け取れる考え方があります。しかし、それには賛成できません。既存のジャーナリズムをどうすべきかという議論なら当然のことながら重要ですが。

  • schmidt

    2009 年 10 月 2 日

    すみません。前のコメントに誤植があります。

    わたしのノーです。
    ⇒わたしはノーです。

  • saygo

    2009 年 10 月 2 日

    >schmidtさま

    早速のコメントありがとうございます。
    ご指摘の通り、米国と日本でのNPOの背景、新聞事情等大きく違っているのを同じ土俵で考えることは間違っているかもしれません。この辺り、私ももう少し勉強してみます。

    また、私も、新聞の機能面、レゾンデートルから非営利との親和性を考えることに異論はありません。ただ、おっしゃるように、業界の自助努力が十分でないまま、こういった手段を期待するようになるのはまずいなぁと思っています。まだ、国内でそういった動きはないのだとは思いますが。

  • ハタ

    2009 年 10 月 24 日

    割り込み失礼します。

    >schmidt様
     わたし、「ジャーナリズム」って、異種混交的で多様なものではないかなぁと思うのです。象徴的な例ですが、たとえばNYTを頂点とするようなリベラリズムの影響が強い米国のジャーナリズムを、すべてのメディアが“お手本”にあおぐ必要なんてないですよね。地方紙には地方紙の、地域紙には地域紙の、専門紙には専門紙の多様な「ジャーナリズム」があってよい。
     「ジャーナリズムなんて要らない」という声の多くは、「大手メディアがいうようなジャーナリズム」であって、それ以外のジャーナリズムが巧妙に不可視化されているんじゃないでしょうか。
     わたしの誤読であればごご批判を賜りたいのですが、「豆新聞」にもいろいろあって、なかなか頑張っているところもあるように思うのです。わたしが危惧するのは、ジャーナリズムにヒエラルヒーを密輸入してしまうこと。特定のジャーナリズムを権威化させることで喜ぶのは、統治権力ですから。

  • schmidt

    2009 年 10 月 26 日

    ハタさん、コメントありがとうございます。Saygoさん、お騒がせします。

    >ジャーナリズム」って、異種混交的で多様なものではないかなぁ

     激しく同意!高名な論者の中にも、ジャーナリズムや新聞の多様性を見失っている人がいます。というよりも、もともと大新聞を前提にモノトーンなやりとりをする方が簡単であります。そうしたやりとりをしている限り、わたしがいる新聞社のようなものでも、ほとんど存在しないも同然です。別にどうでもいいんですが、若い人たちまでそんな気になっているのを見るのはつらいものがあります。

     「豆新聞」にもいろいろあると思います。わたしがイメージしているのは、某町の某地域で数百規模の部数で頑張っていた事例です。彼らが地域をはいつくばるようにしながら提案していた「ジャーナリズム」は、劣悪な経営環境ゆえに妥協とへつらいを常に伴うものでした。
     日本でNPO的な新聞事業を模索するとき、あの「豆新聞」とどれだけ異なる世界を目指すことができるのだろうかと思います。誤解していただくと困るのですが、わたしが身を置いている新聞社を無条件に正統化するつもりは全くありません。

  • schmidt

    2009 年 10 月 26 日

    自分のコメントに自分でコメント。w

    >日本でNPO的な新聞事業を模索するとき、あの「豆新聞」とどれだけ異なる世界を目指すことができるのだろうかと思う

     NPOでまず特定の領域のメディアを作れないかというのは、わたしの長年の宿題というか、テーマなんです。
     で、この手の議論になると、いろんな前提を取っ払って、自分ならどんなNPOを立ち上げられるかって話になります。わたしたちの社会におけるNPOの位置とメディアのありようが二重の意味でのしかかってきます。
     NPOがメディアを立ち上げられれば、少なくともわたしが37年も身を置いてしまった事例とは、一味もふた味も異なるメディアができることはわかっているんです。
     問題はどう立ち上げるかであります。

  • ハタ

    2009 年 10 月 27 日

    schmidt様
    NPOがメディアを立ち上げるというアイデアはたいへん魅力的に思います(^^)
    ただ、もう少し柔軟に考えると、既存メディアがNPOに場所を提供したり、オルタナティブなNPO系メディアと連携したり……という選択肢もあるように思います。

  • schmidt

    2009 年 10 月 27 日

    ハタさま

    >既存メディアがNPOに場所を提供したり、オルタナティブなNPO系メディアと連携したり……

     そうですね。こちらはわたしの本業のステージです。幸い、わが同志である「シビック・Jの君」も頑張ってくれているので、少しずつ事例を積み上げていけそうです。ご支援よろしく。

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