広告が広告でなくなる時という幻想

つぶやき程度

Facebookに表示される“リール”ですが、毎度見たくもないものを見せられるのが本当に嫌で、そのうちFBも学習してくれるのだろうと毎回非表示にすることを繰り返していました。でもいつも表示されてしまいます。見たくないモノを強制的にサービス側から見せられるのはほんと苦でしかないので、随分とデフォルトで表示されない方法を探したのだけど、どうも無理みたい、ということで、結局はブラウザの拡張機能で見ないよう設定してしまいました。

見たいモノを見ようとして、見たくないモノを見せられる苦痛

ウェブ広告の面白さと可能性に出会ったのは、かれこれ20数年前のことになります。当時はバナー広告のサイズは何がいいとか、CPMだCPCだと分からないなりに議論し、アフィリエイトを試してみたりしながら、その大きな可能性を感じていたなぁなどと思い出します。その頃、このブログでもよくウェブ広告のことについてポジティブなエントリをしていました。例えばこれ。

広告の価値は、消費者が欲しい情報なのか否かで、それはクライアントがお金を払っているか否かで決まるわけではない、というようなことを書いています。2005年前のエントリなので、すでに古典ですね笑

でも当時は、デジタル技術の進化にともない情報のパーソナライズが究極の形まで昇華されると、そうなるモノだと信じていました。でも何かが違う。SNSでは見たくないモノを見せられ、見たくなければお金を払えと言われる(ある意味SNSの場合は一理あるけど)。公益性が高いと思われるニュースを見ようとリンクをクリックすると、このニュースを読みたければ、しばらく広告に付き合えと言われる。またこれが興味のない内容すぎて苦痛でしかない。

そこに伸びしろがあるのかも

ほんと20年変わらないどころか、手を替え品を替えな感じで「広告が広告でなくなる」という妄想が実現しないのはなぜだろう。恐らくそこには、情報の発信者と受信者の距離がありすぎるから現実味がないのだろうなぁと。

いかに(無理やり)閲覧させるか、いかにクリックさせるか、いかに購入させるか。これはこれでマーケティングの基本なのかもしれませんが、もっと新しいメディアや新しいテクノロジーを純粋に活用した、シンプルな広告商品がでてきても良いような気がしています。

自分は、長く地域の新しいデジタルメディアを模索してきたのだけど、この辺りにこそローカルの可能性があるにちがいないと信じて、その具現化に向けてもがいてみることにします。あいかわらずです。

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