テサラックとは

このブログタイトルにも使った「テサラック」とは、アメリカの詩人、シェル・シルヴァスタインがある時期を称したもの。その時期とは、古きものが死に瀕しているが、誰も来るべきものを明確に見出せない時期のことだそうだ。

私は、最近マーケティング関連の本を読むことが多い。年末にも数冊の本を購入したが、その一冊が、ジョセフ・ボイエットとジミー・ボイエット著の「カリスマに学ぶマーケティング(日本経済新聞社)」だ。監訳は早稲田大学の恩蔵教授。新しいマーケティングの情報が効率よく詰め込まれた書籍で、読み進めている最中だ。この本の冒頭部分で「テサラック」という言葉に出会った。

この本を読み出して、まずはシェル・シルヴァスタインという名前に目がとまった。彼の書いた絵本「ぼくを探しに」「ビッグオーとの出会い」を10数年前にたまたま購入したことがあったからだ。読み進めると、マーケティングのカリスマデービッド・ルイスとダレン・ブリッジャーが著書の中で彼の言葉を引用、マーケティングが抜本的な改革に苦しんでいる姿を、まさにシルヴァスタインが称したテサラック期だと表現していることを知った。さらに、ルイスとブリッジャーは、

テサラックを経ると社会に変化が起きる。その変化はあまりにも激しく、この「時間の壁」のこちら側で誕生した者にはテサラック以前の世の中がどのようなものであったか、決して理解できないだろう。

と評し、いかにこの時期が重大で深刻な時期であるかを説いている。

たまたまこの書籍では、マーケティングがこの時期にさしかかっていると書いてあるが、他にも当てはまるジャンルは多いように思う。特に、私が所属する業界をはじめ、ニュースや情報を発信する世界は、まさにこのテサラック期に足を突っ込んでいる。月並みな言い方になるが、ITの台頭は想像をはるかに超えたスピードで、長年続いてきたメディアの基礎を侵食しつつある。最近このことを痛感している。更に業界内でもデジタルデバイドが進み、どの方向が正解かを導き出すことが困難な状況に陥っているように思える。まさにテサラック期だ。

しかしながら、手を拱いてばかりはいられない。私は、この時期を有意義にさまよう手段の一つとしてウェブログは面白いと思う。はじめのエントリーでも書いたように、参加型ジャーナリズムがどうだ、といわれてもなかなか明快に答えることはできないが、その可能性に触れれるだけでも大変意義深い。

つい最近、AMA(米国マーケティング協会)が19年ぶりにマーケティングの定義を改定した。私たちも根っこの部分の改革を迫られている。変わるべきことと、守るべきことを見極める、ここがそんなヒントを拾える場になれば、と思う。