情報ビジネスの両輪

よく読ませていただいているブログ「小林ScrapBookHeartlogic」に興味深いエントリーがありました。既存メディアとブログの関係を、市場に出回る菓子とそうでない屑菓子に例えて論じてあるのですが、これが何とも分かりやすく、見事にこれからの既存メディアのあるべき姿を示唆しています。

ホリエモンの「メディアを殺す」という刺激的な一言は、既存メディアとブログを対立軸に置く考え方を助長しました。どちらがどちらを対立軸に据えようとしているのか、という議論はあるかと思いますが、少なくとも私の周りでは、ホリエモンを対立軸に置き、彼が日枝氏と掌を重ねる姿を見て「メディアを殺すことができなかった」と評し冷笑した人が多かったように感じます。しかし、この象徴的な出来事は一過性のものではなく「きっかけ」に過ぎません。一部メディアでは、ネットと既存メディアの融合について精力的に論じられているようですが、その現場ではどれほど意識が変わったのでしょうか。今後ますます、ネット上だけではなくメディアの現場で、こういった論議が繰り返されるべきではないかと思います。

ところで、小林氏のブログには

きちんと編集されたコンテンツは一定のクオリティで継続的に提供し、リテラシーの低い人、可処分時間の少ない人(または、そのカテゴリの情報に対して時間をかけたくない人)、ブランド好きな人などに提供する(報道による情報の歪曲のような話は、ここでは別問題である)。一方、実験的な企画、一般ユーザーも交えた議論、断片的な記事なども捨てずに、「参加型ジャーナリズム」とでも名づけて場を提供し、それも行えばいい

と書かれています。確かに、まだ編集されたコンテンツを必要とする人たちもたくさんいます。挙げられているカテゴリー以外にも、既存メディアしか情報入手手段を持たない人たちも多くいるのが現状です。既存メディアは、そういった人々に情報を提供することでビジネスモデルが成り立っているわけですから、そのコンテンツに高いクオリティが求められるのは当然のことでしょう。

一方の「参加型…」は編集というフィルターを介していないからこそ意義深いのでしょう。小林氏の例えを借りると、屑菓子の山の中に、市販の菓子と変わらない質の高いものがあったり、ともすれば市場ではめったに見ない希少なものがあったり、そんな新たな発見があることが魅力なのです。

同氏は「編集されたコンテンツとCGMを使ったコンテンツは、情報ビジネスの両輪」という言葉でエントリーを結んであります。

私的には、端整に箱に詰められた市販の菓子も嫌いではありませんし、日常の中では必要とする場面も多くあります。しかし、色々なものが入り混じった大きな箱の中から自分の食べたい菓子を探す作業には大きな魅力を感じるし、何より様々な発見に出会うことができます。前者が空腹を満たす役割だとすれば、後者はさらに好奇心をも満たす、といった感じなのでしょうか。