「ネットは新聞を殺すのか」の12日のエントリー「ネットジャーナリズムと参加型ジャーナリズム」に遅ればせながらのTBエントリーです。
実は最近、市民参加型の「市民」って誰のことだろう、「市民参加」ってそもそも何だろう、という疑問が解けずにもどかしい思いをしていました。辞書やWikipedia、「市民とは…」を考察したサイトなども見てみたのですが、参加型ジャーナリズムの主役となる「市民」の定義がなかなか整理できません。しかし、湯川さんの「参加型ジャーナリズムのネット以外の媒体での可能性について考えてみたこともなかった。」の一言で、少し解けはじめたような気がします。
まず、既存メディアも、市民参加型を随分以前から取り入れているというごく当たり前のことを再認識しました。いわゆる識者と呼ばれる人たちや、市民活動家、アマチュア芸術、スポーツ団体の人などが、新聞紙面にコラムや時事問題の論評を寄稿することは、よくあることです。各紙に設けられている読者投稿もその類でしょう。またテレビでも、例えば「朝まで生テレビ」の様子を思い浮かべると、スタジオに来ている一般の人たちが手を挙げ、パネラーに質問したり、自分の意見を述べたりする。これも一種の参加型ジャーナリズムの姿なのかもしれません。
しかしながら、既存の参加型ジャーナリズムには2つの問題点があります。1つはメディア側が選んだ市民であるということ。2つ目は、その意見が編集者の目を経由して公開される(テレビの生放送はこの限りではないかもしれませんが…)ということ。とすれば、このメディア側が設けたルールの下での市民参加型は既に存在する、ということができるのかもしれません。でも、穿った見方をすれば、メディア側の演出のように見えてしまいます。
これに対し、ネット上で語られる参加型ジャーナリズムは、上記の2つの制約がありません。誰が書きこんでもいいし、匿名でOK。いわゆるオープン参加です。さらに、編集者の目を経由することもなく、ストレートにHP上に反映される。だからこそ、マイノリティの意見が表に出てくるわけですが、変わりに誹謗中傷など心無いコメントやエントリーも出てくる、ということなのでしょう。そう考えると、たくさんの市民が、良心とか自己責任とかいう意識の下で、自由に、多くの視点から論議を交わす姿こそ、理想的なオープンソーススタイルのジャーナリズムだということになります。そして、その理想的スタイルを現実のものにするより高い可能性を秘めているのが、今のところネットを介するスタイルだということなのでしょうか。少なくとも、既存メディアがこれまでやってきたモノよりは、本来あるべき参加型ジャーナリズムに近づくのでは、と思います。
「市民」という言葉を目の前にしたとき、既存メディアが語るのと、ブロゴスフィアで語られるのとでは、言葉の定義自体に大きな食い違いがあるのかもしれません。ちなみに冒頭に触れたWikipediaで「市民」を調べると、「言葉のニュアンス」という項目で、以下のような記述があります。
日本の保守主義者は、「地球市民」や「市民運動」に反発し、市民という言葉を好まず、かわりに国民を用いることが多い。逆に進歩主義者は市民という言葉に、ある種の理想像を投影し、好んで用いる傾向がある。これは「国家が先にあって、そこに国民が属している」と考えるか、「個人が先にあって、その共同体として国家がある」と考えるか、個人と国家の関係に対する観念の相違に基づいているものとも考えられる。
もしネットと既存メディアが逆の立ち位置にあるのだとすれば、短絡的に融合を語れないのかもしれません。
コメント
機能を軸に、メディアとネットの融合を見れば
現在のメディアが持つ機能を大別すればa:報道b:検証/論評c:娯楽d:広告の4点ではないかと思う。どの機能をどのメディアが担うか、という思考をすれば、マスメディアは「機能」を果たすための「ツール」であるといえる。例えば、「歌」という娯楽機能を果たすためにはどのメデ
「市民って誰?」という問いは
「おまえのせいでみんな困ってるんだ!」という叱責に対して「みんなって誰?」と質問するような虚をつかれるような質問ですよね。
(例がベタベタ過ぎますか?)
特にジャーナリズムについてネットとメディアを語るときは「デジタルディバイド」とか「ネットリテラシー」について確認しておかないととんでもない方向に行ってしまうような気もしています。
テサラック様のエントリーに刺激を受けて
ネットと既存メディアの関係について少し書いてみましたので、トラックバックいたします。
scapaさん、コメントありがとうございます。
「デジタルデバイド」や「ネットリテラシー」を確認しておくことは確かに重要ですね。今の時点で、誰が能動的に関わろうとする意識やリテラシー能力が高く誰が低いのか、さらに、時間軸に沿って3年後、5年後、10年後はどういう変化が予測されるのか、ということを検証して見る必要がありそうです。せっかくのネットを介した参加型がジャーナリズムが、限られた一握りの人のものになっては意味がありませんからね。
偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論
自分好みのおもしろいブログが読みたい。どこにどんなブログがあり、それはいったいどういうふうにおもしろいのか? そんな的確なブログ情報を効率よくゲットしたい。そう考えている人は多いんじゃないだろうか?
もちろん現状でも、その種のセレクター型ブログはある。大きく分けると2種類だ。ひとつは人気(アクセス)ランキングのたぐい。もうひとつは「なるべく客観的な目で選びました」というスタンスのお店である。
前者についていえば、ランキングが必ずしも「おもしろさ」を保証してくれるモンじゃないのはご存知の通りだ。また後者のように客観性を装うセレクトのしかたでは、選んだものが無色透明になってしまう。
そうじゃなくて、もっと「極めて個人的な好み」が剥き出しになったセレクターがたくさん出てこないかなあ、と思う。とてもパーソナルで、細分化された嗜好にもとづくチョイスをする芸のある仕分け役がほしい。
すこし前に「ブログ時評」さんが、「ブログの自律的な情報組織化が欲しい」というエントリーを提示されていた。そこでの議論ですっぽり抜け落ちているのが、この「選び手自身の個性」なのである。
ちなみに「ブログ時評」さんはその続編で、「ウェブログ図書館」さんを辛目に採点していた。でも私はあそこ、健闘してるほうだと思うな。だって大変だよぉ、あの電子司書の作業って。
もっとも私はその「大変な作業」を、「もっと個性的にやれ」ってな無理をいってるわけではあるが。
たとえば本を買うときのことを考えてみよう。みなさんはどんな選び方をしているだろうか? 特に小説なんかは、たぶん好みの作家で選ぶパターンが多いはずだ。
「この作家は私の趣味に合う」
「この作家なら、私がおもしろいと思う作品を書く傾向にある」
作家の名前がいい意味でのブランドになり、モノを選別するための尺度になっている。
私自身、まるっきりこのパターンだ。思えば昔読んでいた作家の傾向は、10代から20代にかけてハマった筒井康隆の影響をモロに受けていた。筒井氏がエッセイなんかで「この作家の○○って本はおもしろい」と書けば、かたっぱしから買い漁ったものだ。するってえとあなた、ものの見事にそれは「おもしろい」のである。
つまり私が感じるツボと、筒井氏のツボはとても近いわけだ。だから筒井氏の選球眼に身をゆだね、巷にあふれる本をある程度、効率よく絞り込むことができた。
ブログにもこの理屈は当てはまるはずだ。
「客観的・中立的見地から選びました」じゃなく、「オレがおもしろいと思うものを独断と偏見で選んだ。なんか文句あっか?」的な、いい意味でのゴーマン・セレクター。もしそのセレクターと私のツボが似ていれば、きっとブログ選びがかなり効率的になるだろう。
もちろんできることならネット上に林立するすべてのブログに目を通し、自分の目で見て決めたい。だがいかんせん、そんなことは物理的に無理だ。
だからこそ「このブログにはこういう種類のおもしろさがあるよ」と、思い入れたっぷりに自分の好みをゴリ押しする「必殺選び人」がほしいのである。
で、もしこのテのセレクター型ブログが一般化すると、何が起こるか? たとえば同じように「メディア論」というカテゴリーでおすすめブログを選んでいるのに、セレクターAと、セレクターBはまるでちがうブログを店先にならべてる、てな状況が生まれる。
これって情報のあり方が「専門店型」なインターネットに、とても合っている。
もうひとついえば「客観的に選びました」な切り口だと、まんべんなく無難なものがならんでしまうはずだ。
ほりえもんさんが作ろうとしてるらしい新聞にチャチャを入れたエントリーで書いた通り、ある一定数の分母になる人たちが読んだとき、「みんなが同じようにおもしろい」と思う最大公約数的なブログが選ばれるだろう。
これってなんだか平凡でつまらないなあ、と私は思う。
また客観的な選び方に頼ってしまうと、選び手になるセレクターの数もそう多くはならないだろう。似たようなものを選ぶサイトがたくさんあっても意味がないからだ。
一方、Aさんが「おれの目で選んだぞ」てなふるいのかけ方をすれば、Aさん好みの「偏った」リストができあがる。この偏りにこそ、おもしろみがあるわけだ。かつ、このスタンスだと、セレクターの数はけっこうな数になるんじゃないかな。
いろんなものがあちこちに散らばっていて、そのひとつひとつがキラキラ光ってる。これってとても「ネット的」だ。
もっともそうなるとセレクターの数が多くなりすぎて、今度は「どのセレクターの目が確かか?」をセレクトするブログが続々と登場したりして。なんだか永久運動だな、こりゃ。おあとがよろしいようで。
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ニュースのブログ化における『壁』
愛読しているブログ猫手企画@新聞屋さんのエントリ「カナロコTB&コメント解禁:猫手企画が1gets!」によると、猫手さんが神奈川新聞に初トラックバックを行ったそうです。おめでとうございます??。
その神奈川新聞が、毎日新聞に登場。「地方紙とネット 「カナロコ」の挑戦」と題する記事で、担当の局長さんがインタビューに答えています。それを読みながら思ったのは、いやはや、メンテナンスも含めてなのでしょうが、保守管理がたいへんそうだなあ、と。それに、やはり、新聞社によるニュースのブログ化には、ある種の制約がどうしても付きまとうなと。。。それはそれで致し方ないのかもしれない、という思いが募ります…
JR西日本を恫喝した「髭記者」の実名にたかるブログ・スクラム
JR西日本列車事故の記者会見で、下品な怒声をあげた「髭記者」の実名が暴かれたようだ。で、その実名をいっせいに晒し、これまた下品な「ブログ・スクラム」が行われている。やれやれ、である。
私はいままでJR西日本関連には、ひとこともふれていない。右へならえで他人と同じことをするのが嫌いだからだ。
あの事件が発生した時点で、その後なにが起こるかはだいたい想像できた。
まず既存メディアがいっせいに報道し、メディア・スクラムが起こるに決まってる。ブログも同じように事件を取り上げ、似たような文面があふれ返るんだろう──。案の定、想像通りだ。うんざりである。
「JR西日本現象」をおさらいすると、こんなふうだ。まず既存メディアが第一報を流す。次に原因をめぐって第二報が続いた。置石だ、過密ダイヤだ、過剰な定時運行だ、と推測だらけの情報が飛び交う。
一方、ボウリング大会がどうの、旅行がどうの、と観衆の「情動」に訴えかけるどーでもいい批判記事も続発した。JR西日本の社員がやったことは、すべて「悪」にされるマスヒステリー状態である。
こうなるともう彼らは全社をあげてひたすら黙祷し続けるか、救出活動に参加する以外の行動は許してもらえない。もし事件当日にトイレでウ○コした社員がいたら、「この非常時にウ○コをするとは何事か! けしからん」てな状況だ。
もちろんその日の夜に、夫婦生活を営むなんてとんでもない。謹慎だ、チ○コはしまっとけ、と怒られちゃう。
かたやブログも事件当時から、いっせいにネタにした。もうどこへ行っても似たような文章ばかり。すっかりまいっちんぐマチコ先生(古)である。あなたたち、ちょっとは独自性とかオリジナリティとか考えないんですか? てなあんばいだ。
で、事件の本筋と平行してずっと流れていたのが、「記者会見で怒鳴り声を上げたあのヒゲの記者はだれなのか?」だった。実名らしきものを暴いたのはブログ「清谷防衛経済研究所 ブログ分室」らしい。管理人さんはフリーランスのジャーナリストのようだ。
まあ清谷さんの記事は、情報を掘り起こしたんだからオリジナリティはある。だがそれに群がるほかのブログには「何もない」。尻馬に乗り、他人がくれた情報に便乗して騒いでいるだけ。ただのコピペみたいなもんだ。なんだかなあ、である。
JR西日本を寄ってたかって吊るし上げる既存メディアと、髭記者の実名をこれでもかと晒す無数のブログ。どっちも同じ穴のムジナに見えるのは私だけでしょうか? 要はあなたたち、祭りに参加したいだけ、魔女狩りを楽しみたいだけだよね? なんか後味悪いよなあ。
自分は匿名のくせに、髭記者の実名を晒してすっかりコーフン中のあるブログは、こんな趣旨のことを書いている。
「既存メディアはもうやりたい放題できないぞ。われわれネット住人が監視してるんだからな」
や、監視されてるのは別にマスコミだけじゃないよ。ブログだって同じだ。この人、自分には関係ないみたいな書き方してるけど……もって銘すべし、とはこのことである。やれやれ。
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福知山線事故(5)…「茶化し斬り」で何がしたかったのか
福知山線の脱線衝突事故について,(1)JR西日本に対して対応を求め,(2)(3)ではマスコミの暴走ぶりを書いてきました。そして前回(4)では,“勘違い連中を茶化し斬り”と題してお笑いの形式をとったエントリーをアップしました。
(4)をアップした後,いろいろな事を考えました。
意図はどうあれ主旨はどうあれこのような“ネタ”を作ることは不謹慎じゃないだろうか?読んでくださってくれる人に受け入れてもらえるだろうか?言いたいことはちゃんと伝わるのだろうか?ていうか,形式以前に意図や主旨は妥当なものだったのか?そもそも書いてよかったのか?「被害者や遺族の方々の気持ちや事故の真相究明や再発防止とは全く関係ない方向に暴走している人々について,お笑い形式で茶化してみたいと思います」っていうけれど,こんなこと書いても被害者の慰めにも事故の再発防止にもつながらないじゃないか?!
だいたい,自分で読み返してみても,その時の心身の状態にもよりますが,
「こいつ何様のつもり?!」
「ハガキ職人って格好よくもない“身分”をひけらかして,
『自分は文才があるからこんなのも書けます』とでも言いたいつもり?」
と少しむかむかすることがあるくらいですから
本当に,読んだ人がどう感じるのか気になりました。
なんで自分はこんなものを書いたのだろう…
そう考えているうちに,
「意図」?「主旨」?
そもそも自分はここで何が書きたかったのか?何が言いたかったのか?
を疑問に思うようになりました。
ネットで公開した以上,そのエントリーで自分が何を言いたかったのかなど
書いたものそのものを読んだそれぞれの人の解釈にゆだねるしかないわけで,
福知山線脱線事故そのものに関する記事は他の方の書かれたブログをROMすることにし,
私は,コメント欄に寄せられた意見や感想を参考にしながら,
自分が一体何がしたかったのかを見つめ直すことにしました。
■コメントに教えられる
いただいたコメントは,肯定・批判いずれの意見も,どれも思い当たる,
というか私自身が読み返したときにこみ上げてくる感情を的確に言葉で表現してくださるものでした。
みなさん,それぞれの頭でとらえ,読み込んでくださって,真剣に向き合って
意見のボールを投げ返してくださいました。
「間違っていなかった」とまでは思いませんが,書いて本当によかったと思っています。
> 報道という旗を掲げれば何をしてもよいというマスコミの体質が見え見えな事例ばかりですね。
> 日本人はテレビや新聞に書いてあることは何の疑いも持たずに信じる国民性です。
> マスコミの情報に接するときは眉につばつけて。
> 茶化すには若干時期が早いかな…と思いつつ、素直に読めました
と,面白かった,考えさせられたと好意的に書いてくださる方が多く
とてもうれしかったです。
> 結局この事件を利用してマスコミを叩きたいだけじゃないのかという風に捉えられます。
> たとえ内容が真っ当なことでも、形式は人の考えが如実に出るものですから。
> 前回までの記事はよかったのに,これじゃあ視聴率稼ぎのために「事故関連」の
> ニュース垂れ流してるマスコミと変わらないじゃないですか
と,書かれている内容自体は認めながらも,やはり形式が不謹慎,
あるいはアクセスアップを狙う意図が見えて不快という意見もいただきました。
(Akkyさん,既に誤解だったと書いてくださっていますが,おそらく多くの
方が同じことを感じられたと思いますのでそれを代表する形でコメントを
引用させていただきました。おゆるしください)
> 30過ぎてなお、茶化していいことと悪いことがあるという程度のことさえ
> 理解できない人間がこうして大声でモノが言えるというネットの怖ろしさ…
> 遺族がもしこれ読んだらどう感じると思う?
文体とか,この後に書かれた紋切り型の揶揄のフレーズとか頭悪い作文で尊敬できない
ところもありますが,読んでいただいた正直な感想を書いてくださった,
こういうことを考えられたという事実については,おそらく多くの人たちの思いを
代表するものだと思いますので,ありがたく謹んで受け止めたいと思います。
> ブログならいいとか、社会批判だから茶化してもいいっていうなら、
> マスコミと五十歩百歩のレベル。
> ネット言論も不特定多数の読み手を前提とする以上、名誉とか心情に配慮すべき点は
> 変わらないんですけど。
「ブログだから何を言ってもいいのか」については非常に深い問題で
どう取り組んで考えるべきか・検討の糸口や切り口すらつかめないのが
正直なところです。申し訳ありませんが,おそらくこの件に関する記事の中では
お答え・反論できないと思います。
先に出た「遺族がどう思うか」については,少しずれた視点になるかもしれませんが
この後で(または次のエントリーで)考えたいと思います。
■すべては憤りから
そしてUPから2日後にいただいたコメント,
> 形式はいつここのネタ風にしてはいますが、内容は極めて常識的
> 嘘ニュースは、逆にこうあるべきじゃないかと僕も思うぐらいです。
> 嘘ニュースの中で書いてあるマスコミの心情は、おそらくその通りです。
全面的に肯定していただいているコメントで恥ずかしいのですが,
「嘘ニュース」で書きたかったのは,本当にこういうことだったのです。
テレビニュースで見た会見の様子を見て本当にあきれ,
ブログで,多くの人たちがまとめ,指摘されたその暴言の数々を確認するにつけ,
マスコミのもつ問題点がほんとうに数限りなく浮かび上がりました。
・JR西日本が「まだ調査中」と答えている事柄に対し
「人が107人死んでるんやぞ」等と脅すのはまるで筋違いである。
恫喝して無理やり喋らせようとすれば,
不確定な情報でも発表せざるを得ない状況をつくりだし,誤報の原因を誘発する。
・不確定な情報だからと発表しなければ「隠ぺい体質」,
マスコミが無理やり公表させた情報だろうと,間違いだとわかれば
今度は「嘘つき」「責任逃れ」と非難。
信用をなくすのはJR西日本であってマスコミ自身は責任を負わないからと
事故に関する重要な情報を平気で混乱させている。
・計算ずくだとしたら,JR西日本幹部を罵倒して怒らせ,
テレビ受けする失言を引き出すという取材対象を食い物にした卑怯な行為。
“演出”を加えた“事実”を報道の名の元に見せるということで
視聴者に対しても馬鹿にした行為であり,非常に失礼。
・事故に関する重要な情報を得る場であるはずの記者会見場で
休暇中の社員の懇親会の内容や時刻・2次会の人数など
どう考えても優先順位の低い,くだらない事実を執拗に問い詰め
たれ流し報道することで,他の重要なニュースが埋没または
割愛されてしまう。そのバランス感覚のなさは,場合によっては
視聴者・読者の利益(知る権利)を損ないかねず罪とさえ言える。
・まして「遺族が見ているんだぞ」という言葉で
休暇中の社員のボウリングを処罰させようとする発言に至っては
報道の役割を完全に逸脱している。マスコミに人を罰する権利はない。
報道記者に免許があったら即刻免停・講習受講を受けさせたい。
さらに勝手に遺族の名を使う点で人としても間違っている。
・会見での暴言は,場をわきまえない・最低限の礼儀をわきまえない・
報道の役割をわきまえないただのチンピラである。
そんな記者の書いた記事など信用できない。
「二転三転するJ西の発表にいらだった」という理由があったというのなら
なおさらのこと,プロとして「むしゃくしゃしてやった」のと同レベルの幼稚な行為。
などの,マスコミに不信感を覚えるポイントが次々と認められました。
そして,一連のJR西日本叩きの中で,
「今回の事故はJR西日本の体質が引き起こした」ことを示したいがために
“JR西日本の体質”を感じさせるマイナスの事柄を執拗にほじくり出そうとした
その行動の中に,逆にいやらしいマスコミの“体質”が見えてきたのです。
それはつまりこの2つです。
・事故という最大の不祥事を起こしたJR西日本には皆が怒っている。
その怒りを増幅させるようなJ西の“不祥事”情報を見せたら,
どんなくだらないニュースでも,とびついて同調してくるだろうと
視聴者・読者をなめてるだろ!
・大事故を起こしてパニックにもなりかねない状態でJ西が見せた数々の失態を
さもひどいような事をしてるかのように指摘してあげつらうけれど,
そういう自分たちが同じ立場になったら問題なく行動し振る舞えるのか?!
どう考えても,あんたらが人様以上にちゃんとできるとは思えん!
■「嘘ニュース」は,そんな思いをぶつけて書いたものです。
記者が捕まって,新聞社や放送局側が逆に非難され謝罪する立場になったら
ちゃんと説明責任を果たせるのか?
適切な処分と今後の防止策を打ち出せるのか?
「指摘するまで出さなかったのは,事実隠し・隠ぺいじゃないんですか?」
と言われるようなことを,あなた方のほうこそやるんじゃないですか?と。
※ 「嘘ニュース」では“威力業務妨害で逮捕”としましたが,
本当は,日本新聞協会が問題視して独自に該当記者を捜し出し,
本人を出しての謝罪会見を開いて自浄能力・姿勢を示すべきだと思っています。
(本人は取材対象に対する非礼・誤報を誘発しかねない恫喝行為を詫び,
協会はこのような記者を出して会見を混乱させマスコミの信用を損ねた責任をとる)
はからずも産経新聞が会見での暴言に対して批判する記事を書き,
先日,暴言の様子がテレビで流れネットでも話題になっていたヒゲの記者について
所属する読売新聞が謝罪しましたが,
あくまでも他社のやっているだとして批判したり,
顔がばれて週刊誌に所属もばらされた結果謝らざるを得なくなって
謝るというのではなく,やったこと自体をマスコミ全体の問題として認識し,
新聞協会や日本民間放送連盟の単位で動いて
できるかぎりすべての問題発言を調査・洗い直して公表し,
反省の意を示すことでマスコミの信頼と名誉を守るべく努めるべきだと考えています。
新聞倫理綱領(日本新聞協会公式ページ「取材と報道」より)
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。
自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。
それにしても読売新聞側の謝罪コメント(→gooニュース「脱線事故会見巡る不適切発言でおわび…読売・大阪本社」)…
つっこみ所はいっぱいですが(「当該記者を厳重注意のうえ、既に会見取材から外すなどの
措置を取っています。」←面が割れてるから表に出せないだけだろ等),
「使命感や熱心さのあまりとはいえ、常に心がけるべき冷静さを欠いた
と言わざるを得ません。」 という言い訳・自己弁護の言葉が入っているのを見るにつけ,
反省してないな…と思ってしまいます。
「JR西日本に憤ったとはいえ置き石は犯罪です」なんてアナウンスするくらいですから
まして身内の不祥事なら「使命感ゆえの発言とはいえ不適切」
という前置きがつくのは当然のことかもしれませんね。
そして,悪かったから謝るのではなく,ばれたから,非難されたからしかたなく
謝っているという本音が見え見えで情けなくなります。
「世間が騒ぐまで公表しなかったのは,隠ぺいじゃないんですか?」
事故の運転手がマスコミで大々的に名前をさらされているのはしかたないにしても
前途ある若い新聞記者さまは匿名ですからね(会社全体で責任をとってくれたら別にいいですけど)。
J西車掌の懇親会の始まった時間・人数・2次会以降の人数や時間・その様子
まで詳細な説明責任を要求したのですから,何月何日の何時何分にどんな発言をして
どの発言を問題発言と認識しているのか,きっちり説明責任を果たしてほしいものです。
※懇親会の開始時刻については,事故を知っていたかという点でポイントには
なりますが,詳細に聞き出す・問い詰める必要はない。
それに,「常時100人から50人いる」という会見場,
暴言記者が1人や2人なわけないです。
面が割れてない暴言記者の所属する会社は,自分の社は関係ないと思ってるのでしょうか?
声で,同僚かどうかくらいわかると思います。
今も会見取材に通っているのではないですか?
ばれなければ・世間に騒がれなければ処分どころか社内調査すらも
全く考えていないんじゃないでしょうか。
こんなことではほとぼりがさめたら…暗い気持ちになります。
だから,新聞協会,民放連盟という単位できちんと調べて
再発防止に取り組むべきだと思うんですけどね…。
■今回この件について,本当は前編:「なぜ福知山線事故(4)をあのような形で書いたのか」
後編:「マスコミや自分を含めた人々に求めたいこと」
の2回にわけて書こうと思っていたのですが,
前半部分の導入部分でこんなに長くなってしまい,
お笑いという形式をとった理由・お笑いについてどう考えているか・
なぜJ西を題材にしなかったのかという
本題に入る前に10000字制限をオーバーしてしまいました。
今回は一旦区切りとさせていただき,近日中に続きをアップするようにします。
駄文におつきあいいただきありがとうございました。
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※ビデオジャーナリスト神保哲生氏ブログ「JR西をバッシングしても、いいこと何もありませんよ」
※下村健一氏公式ページより「”怒り”のオーバーラン、していませんか?」
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