参加型ジャーナリズムの主役は…

ネットは新聞を殺すのか」の12日のエントリー「ネットジャーナリズムと参加型ジャーナリズム」に遅ればせながらのTBエントリーです。

実は最近、市民参加型の「市民」って誰のことだろう、「市民参加」ってそもそも何だろう、という疑問が解けずにもどかしい思いをしていました。辞書やWikipedia、「市民とは…」を考察したサイトなども見てみたのですが、参加型ジャーナリズムの主役となる「市民」の定義がなかなか整理できません。しかし、湯川さんの「参加型ジャーナリズムのネット以外の媒体での可能性について考えてみたこともなかった。」の一言で、少し解けはじめたような気がします。

まず、既存メディアも、市民参加型を随分以前から取り入れているというごく当たり前のことを再認識しました。いわゆる識者と呼ばれる人たちや、市民活動家、アマチュア芸術、スポーツ団体の人などが、新聞紙面にコラムや時事問題の論評を寄稿することは、よくあることです。各紙に設けられている読者投稿もその類でしょう。またテレビでも、例えば「朝まで生テレビ」の様子を思い浮かべると、スタジオに来ている一般の人たちが手を挙げ、パネラーに質問したり、自分の意見を述べたりする。これも一種の参加型ジャーナリズムの姿なのかもしれません。

しかしながら、既存の参加型ジャーナリズムには2つの問題点があります。1つはメディア側が選んだ市民であるということ。2つ目は、その意見が編集者の目を経由して公開される(テレビの生放送はこの限りではないかもしれませんが…)ということ。とすれば、このメディア側が設けたルールの下での市民参加型は既に存在する、ということができるのかもしれません。でも、穿った見方をすれば、メディア側の演出のように見えてしまいます。

これに対し、ネット上で語られる参加型ジャーナリズムは、上記の2つの制約がありません。誰が書きこんでもいいし、匿名でOK。いわゆるオープン参加です。さらに、編集者の目を経由することもなく、ストレートにHP上に反映される。だからこそ、マイノリティの意見が表に出てくるわけですが、変わりに誹謗中傷など心無いコメントやエントリーも出てくる、ということなのでしょう。そう考えると、たくさんの市民が、良心とか自己責任とかいう意識の下で、自由に、多くの視点から論議を交わす姿こそ、理想的なオープンソーススタイルのジャーナリズムだということになります。そして、その理想的スタイルを現実のものにするより高い可能性を秘めているのが、今のところネットを介するスタイルだということなのでしょうか。少なくとも、既存メディアがこれまでやってきたモノよりは、本来あるべき参加型ジャーナリズムに近づくのでは、と思います。

「市民」という言葉を目の前にしたとき、既存メディアが語るのと、ブロゴスフィアで語られるのとでは、言葉の定義自体に大きな食い違いがあるのかもしれません。ちなみに冒頭に触れたWikipediaで「市民」を調べると、「言葉のニュアンス」という項目で、以下のような記述があります。

日本の保守主義者は、「地球市民」や「市民運動」に反発し、市民という言葉を好まず、かわりに国民を用いることが多い。逆に進歩主義者は市民という言葉に、ある種の理想像を投影し、好んで用いる傾向がある。これは「国家が先にあって、そこに国民が属している」と考えるか、「個人が先にあって、その共同体として国家がある」と考えるか、個人と国家の関係に対する観念の相違に基づいているものとも考えられる。

もしネットと既存メディアが逆の立ち位置にあるのだとすれば、短絡的に融合を語れないのかもしれません。


7 Comments

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  • scapa

    2005 年 4 月 16 日

    「市民って誰?」という問いは

    「おまえのせいでみんな困ってるんだ!」という叱責に対して「みんなって誰?」と質問するような虚をつかれるような質問ですよね。
    (例がベタベタ過ぎますか?)
    特にジャーナリズムについてネットとメディアを語るときは「デジタルディバイド」とか「ネットリテラシー」について確認しておかないととんでもない方向に行ってしまうような気もしています。

    テサラック様のエントリーに刺激を受けて
    ネットと既存メディアの関係について少し書いてみましたので、トラックバックいたします。

  • テサラック@管理人

    2005 年 4 月 16 日

    scapaさん、コメントありがとうございます。
    「デジタルデバイド」や「ネットリテラシー」を確認しておくことは確かに重要ですね。今の時点で、誰が能動的に関わろうとする意識やリテラシー能力が高く誰が低いのか、さらに、時間軸に沿って3年後、5年後、10年後はどういう変化が予測されるのか、ということを検証して見る必要がありそうです。せっかくのネットを介した参加型がジャーナリズムが、限られた一握りの人のものになっては意味がありませんからね。

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