タグ : 新聞
2004年「ネットは新聞を殺すのか」という衝撃的なブログに出会いました。「新聞がこのままではまずいことになる」と、自身の仕事を通してぼんやりと感じだしていた私にとってはとても鮮烈な刺激で、同名の書籍「ネットは新聞を殺すのか」とあわせ、自分の仕事内容というか、進む方向を大きく変えるきっかけになりました。
はじめの頃は「新聞記者もブログを書いたらどう?」と少し煽り気味にブログエントリをあげる筆者に対し反発したこともありました。ただ、実際にメールのやり取りをさせていただいたり、お会いして話を聞いたりするうちに、筆者が新聞業界、既存メディア業界に伝えたいことの意味がよく理解でき、共感するようになりました。
そういった出会いに刺激を受けながら、この5年ほど、人生これまで経験したことのなかったくらい本を読みあさったり、大量のブログフィードを消化したりしながら、それなりに自分自身のやるべきことを追いかけてきました。最近では、ようやくライフワークってこんなものかなぁとか、自身のレゾンデートルはこのフィールドで生かすことができるのかなぁとか、少しずつ進むべき道、方向性も見えてきたような気がしています。
今日「ネットは新聞を殺すのか」の著者、湯川鶴章さんが、ブログ「IT潮流」の中で、所属の通信社をお辞めになるとの報告をされました。刺激を与え続けてくれた大先輩の決断に、一抹の寂しさを感じたりもしますが、新しい門出をお祝いしたいと思います。
と、ブログを書き進めながら考えました。
そもそも「業界を離れる」という私の発想自体が、ちんけな組織論に支配されているのかもしれません。いかんいかん、こんなんじゃパラダイムをこえることなんてできないなぁ、おいらもがんばらないと、、、
新聞の行く末を案じるエントリを度々アップしていたのも今は昔。
最近は、興味の軸足が、新聞から情報の媒介としてのメディアに移ってしまったので、大騒ぎするつもりもないのですが、一通過点としてメモを残すことにしました。
今日、Twitter上で、米国でこんなトピックがアップされていることを知りました。
SENATOR CARDIN INTRODUCES BILL THAT WOULD ALLOW AMERICAN NEWSPAPERS TO OPERATE AS NON-PROFITS
要は、米国上院のカルダン議員が、新聞社を非営利組織として再生する法案を提出したよ、ということみたいです。
そういえば、今年、フランスでは、政府が新成人に1年間無償で新聞を届ける(購読料は新聞社負担、配達料は政府負担)という政策が発表されました。フランスの新聞事情が独特という背景はあると思うのですが、国内では業界関係者を中心に、ネット上でちょっとした騒ぎになったことも記憶に新しいところです。
※フランスの新聞事情はこのブログ(らられぽーと)が詳しいです。
話を戻して、新聞社の非営利組織化という話ですが、国内でも何度か似たような話を聞いたことがあります。
実際、廃刊後に、非営利での復刊を目指した事例としては、鹿児島新報があります。この辺りは、新聞再生―コミュニティからの挑戦 (平凡社新書)に詳しくレポートされています。
また、現状のどうしようもない「新聞」はおいといて、純粋にシビックジャーナリズム的な観点で地域メディアを考えると、非営利組織での運営もありかも、という識者の意見を聞いたことがあります。ただ、機能面からアプローチすると、それもありなのかも知れませんが、縮小するマーケットにおいて、巨大な装置産業を果たして維持できるのかというところは、自身まだ首を傾げてしまうところです。
新聞の行く末に、別の選択肢はないのでしょうか、、、とか言う前に、果たして「新聞人」は、この辺りのトピックを押さえているのかなw
そのあたりが、問題の根っこだったり、、、
私がウェブと積極的に関わるようになったのが03年。04年にブログを書くようになり、05年はじめには、ミクシィ、グリーなどのSNSに出会いました。同時に、マスメディアにはないネットメディアのポテンシャルを大いに感じ、自身の仕事のフィールドが変わるきっかけにもなりました。
そして、この頃、一部の有名ブロガーの皆さんを中心に、EPIC2014というフラッシュ動画コンテンツが話題になりました。今、見返してみると陳腐な内容もあるけど、当時は「NYTがオフラインに・・・」というくだりに、新鮮かつ恐ろしさを感じずにはいられませんでした。時間が経つにつれ新鮮さは失われてしまいましたが、今でも、時々振り返ってみると色々な気づきを与えてくれます。
デバイスの進化、ソーシャルメディアの多様化という部分では、EPICの未来予測は甘かったのかもしれません。ただ、新聞が唯一の抵抗手段としてオフラインに…という部分は、満更でもないのではないでしょうか。というより2014より前に決断を迫られる状況が訪れるのではないかと、一抹の不安を覚える今日この頃です。
少し前になりますが、「つたえびと」という一冊の本が完成しました。この本は、100人が一人1万円を負担、各々の思いを執筆し出版しようというプロジェクトです。不完全燃焼気味ながら(笑)、私もこの企画に参加させていただきました。
この企画の主体は、ローカルメディアネットワーク。2005年2月、ミクシィ内で立ち上げられたコミュニティで、地方新聞社の若手を中心に、自主勉強会を開いたりしてきました。初めの頃は、私も積極的にお手伝いさせていただいていたのですが、最近は、管理人さんに任せっきりで申し訳なく思っていました。ただ、この企画の趣旨を聞き、何か、自分の一区切りというか、そんな意味も込めて参加させていただくことにしました。
今回は、新聞関係者だけではなく、メディア系の勉強をされる学生さんや、研究者の方、ベンチャービジネスを手がける方など46人(100人には足りなかったけど)が、今自分が誰かに伝えたい思いを、様々なスタイルで綴られています。「つたえたい」ということ以外は、特にテーマもなくそれぞれなのですが、何か執筆者に共通する思いというか叫びみたいなものを感じずにはいられません。
で、私が伝えようとしたことは…
正直なところ、何度読み返しても、混沌としていて研ぎ澄まされていないなぁと少し反省しています。ただ、出来の良し悪しは別として、このブログにはログとして残しておこうかと思います。
それと、このプロジェクトでは、本10冊をいただくことができます。現在、手元に8冊残っていますので、読んでみたいという方はご連絡ください。本当は1000円で販売していますが、特別に献本させていただきます(笑)
カタンというポストの乾いた音が響いた。夕べも、お酒の力を借りながら夜更かしをしてしまったので、午前5時にこの音で起こされるのは心地いいものでは ない。さぁ、もう少しだけ寝よう、と眠りの淵に差し掛かった瞬間、ワイドショーの何とも大げさな感情表現で不快に目を覚ます。
目をこす りながら時計に目をやると、午前8時。年をとると朝が早くなるというが、あれは一部の人の思い込みだろう。自分にその常識はあてはまらないらしい。ぼんや りしていると、また乾いたポストの音が鳴り響いた。今度は一段と大きな音だ。時間は、8時10分。どうやら目覚ましのスヌーズ機能をオンにしていたらし い。そう、この音はお気に入りの目覚まし音で、音と同時にテレビというか、情報受信端末の電源が入る仕掛けになっている。
考えてみる と、自身の半生で、大学時代の3年間と新聞休刊日を除き、朝刊が届かなかった朝はない。全ての記事に真剣に目を通すこともなかったのだが、朝の食卓に朝刊 があるのはごく普通の光景だった。それと呼応するように、午前5時、50ccバイクのエンジンと「カタン」 というポストの音が耳に残っている。
その音が聞こえなくなって、何年経ったのだろう。というほどでもないか。いわゆる 「新聞紙」が届かなくなったのは2年前の今日からだった。その数ヶ月前に新聞紙面で控えめに告知され、直後に、販売所の人が「電子ペーパーを使った最新端 末をぜひ」と、何とかという機械のリースを勧めにきた。でも、2011年に、とりあえず時流に乗っておこうと買い換えたテレビは、新聞風にアレンジされた 文字情報がいくらでも読めるし、5Gと呼ばれるモバイル端末でも同様のコンテンツが無料閲覧できる。そんなこともあって、契約書にサインすることはなかっ た。今さら「紙に変わる最先端の・・・」とか言われても、ピンとこなかった、というのが正直なところだ。ただ、ドア越しに、ビール3ケースを見たときには 少し気持ちも揺らいだのだけど。
新聞紙が届かなくなって半年が過ぎた頃、仕事が上手くいかず寝付けない夜があった。午前2時、寝れない のでお酒を少し。3時、思考が縺れてきて余計に眠れない。4時、もうすぐ空が明るくなる。そういえば、10年位前に、同じようなことがあった。東京の会社 から「うちで仕事をしない?」と誘ってもらったり、結構まじめに起業を考えたりしてた頃、こんな夜をすごしたことがある。そして、この行く当てのない悩み は、決まって朝刊がポストに入る音で解放された。カタンという合図とともに徹夜の覚悟が決まると、決まって少し難しめのコトラーやドラッカーを手に取っ た。
その妙な懐かしさから、目覚まし(といっても端末の起動音だけど)の音は、新聞がポストに入る音に設定している。目覚まし音ダウンロードランキングでは、新聞配達がなくなった年のゴールデンウィーク頃から、トップ10を外れてないらしい。
昭和の経済成長とともに大人になり、何度か訪れた不況に一喜一憂した世代にとって、新聞は時代を映す鏡だったに違いない。紙をめくる音、インクのにおい、 指先が黒くなってしまう感じ。今、その文化は消え去ろうとしているけれど、皮肉にも情報パッケージとしての価値とは別の次元で、残されようとしている。
今朝は、首筋にべっとりと寝汗をかいた。なんとも不快な朝だ。
昨年末から始まったCNETJapanの企画「CNETどっち?」。対称的なサービスや、似ているけど好みが分かれそうな商品を、ユーザーが2択で選びコメントするコーナーです。
自分は、こっち派だなぁ、とすぐ答えれるものもあれば、どちらでもない(実際に選択肢はないのだけど)ものもあります。参加された皆さんの思考、迷いはコメントの文言によく現れていて、断定調だったり婉曲表現だったり様々です。「○対△でこっち」という単純な数字の比較は、それほど意味を持たないとしても、参加者の書き込みには定性調査、グループインタビューで得られる情報のような深さがあります。
一つ例にとってみると
では、41対20でインターネットに軍配が上がっています。ただ、あくまで想像ですが、CNET Japanのユーザー特性から考えると、この数字は案外、新聞の健闘といえるのかもしれません。ここのところは置いといて、参加ユーザーの書き込みに目をやると、インターネットと答えた人の中に、新聞のマイナス面を書いた人が多いことに気づきます。そのマイナス面で目立つのが、「ゴミになる」という意見です。また同時に携帯やiphone経由でニュースを無料で入手しているからという意見も目立ちます。ふむふむ。
改めて、こういった定性調査の必要性を感じます。形態素解析だとかテキストマイニングだとか、これだけテクノロジーが進化しているのだから、もっと活用する方法を考えればいいのにと、また愚痴になりそうなので、この辺りで・・・(笑)
ちなみに私は、インターネットに投票しました。正確にいうとテレビとiphoneのダブルスクリーンなのですがw
NHKがケータイにニュース配信–2月から要約記事を無料で(CNETJapan)
NHKの携帯向けニュース配信に日本新聞協会が中止を要請(CNETJapan)
NHK情報ネットワーク、ニュースを配信する有料モバイルサイトを新設(MarkeZine)
こういった話題の周辺には、放送法だとか、NHKとはどういった立ち位置にあるべきメディアなのかだとか、何かと難解な論議も多いと思います。
新聞協会の「本音」はよく分かるし、この議論が無意味だと言い切るつもりもありません。ただ、このところ数ヶ月の、情報流通とその対価に関するトピックを整理していくと、今回突っ込むべきところはここではないのでは、と首をひねってしまいます。
むしろ、インターネット上に流れるニュースコンテンツのうち、何が無料で、もし課金という形でユーザーに対価を求めることができるとしたら、どういうパターンが考えられるのか、無料と有料の差別化のポイントはどこか、などといった、実は当たり前のことを再認識するいいきっかけにすべきなのではないでしょうか。
ただ、そこに読者、ユーザーが不在なのが、一番の問題なのかもしれません。
一ユーザーとして言わせてもらえば、私にとってニュースコンテンツは、NHKであろうがTBSであろうが、全国紙であろうが、地方紙であろうが、あまり関係ありません。欲しいと思った情報が、上手く整理され、小気味よくパッケージングされていればそれでいいのです。もっと知りたいと思えば対価を払うし、代わりに同等の無料コンテンツがあればそこに落ち着きます。
そんな中で、既存メディアには、どうやって求められる「役割」を研ぎ澄まし、情報の媒介としての価値を高めていくのか、また、コアコンピタンスを活かしながら再構築を図っていくのかが求められているのだと思います。
脅威の排除という構図は、繰り返せば繰り返すほどユーザー離れを加速させるだけ、のような気がしてなりません。
これから読もうと思っている、情報革命バブルの崩壊 (文春新書)には、この辺りのヒントが書かれているのかな、と期待しています。